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北政所(きたのまんどころ)「寧々(ねね)」
平安時代の親王や、三位以上の公卿には
自身の家庭や邸宅に関する私的な諸事を

司る事務所を自邸内に開設することが
許されていた

戦国時代の終わり、百姓から出世をした
豊臣秀吉が天下を取った

摂関家出身者以外で、初めて関白になり
従三位が授けられた

邸宅の主が三位に上理、政所を開設する
と、「北方」は「北政所」と呼ばれた

摂政、または関白の正室のみに限られる
ようになった

「北政所」(きたのまんどころ)と言ったら
秀吉の正室の「寧々(ねね)」を思い出す

正室はこの直後から北政所と呼ばれて
家政をとりしきる

北政所」(きたのまんどころ)と言ったら
「寧々(ねね)」ドラマでよく見ましたね

当時の貴族は寝殿造とよばれる数々の
家屋を、渡り廊下でつないだ内裏の
ような構造の邸宅に住んでいた

半ば公の場所でもあった正殿の「寝殿」
とは別に、その北に私的な居住棟が
あったそうです

それで「北政所」と呼ばれたのですが
歴史上、数多くいました

正室の地位が高いのは当時の貴族は
実家が邸宅を所有、婿取婚だったそう
です

「寧々」はのちに高台院となるのですが
署名などに「おね」「祢(ね)」「寧(ねい)」

近年、秀吉自身の手紙に「ねね」と記す
ものが確認され、再び「ねね」説が浮上

秀吉は子供を作るために多くの女性に
手を出し、側室はたくさんいた

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイス
彼の書いた「日本史」には「300名の側室
という記録があるとか

いくら何でも、そんなに多くは無理で
しょう、フロイスが挙げた数は側室の
世話をする女官も含めたものでは、と

歴史学者は秀吉の正式な側室は16人と
推定しているそうですよ

秀吉は側室に血筋の良い名家や大名家
の娘を多く抱えたが子はできなかった

秀吉が近江長浜城主だった時代、山名
禅高の娘との間に、男子が生まれた

この男子は亡くなる、子供が生まれた
のは側室の淀殿のみとか

子には棄(鶴松夭折)と拾(秀頼)、猶子
(ゆうし)には、完子(さだこ)がいる

猶子とは兄弟・親類や他人の子と親子
関係を結ぶこと

「淀殿」の父は近江国の戦国大名・浅井
長政、母は織田信長の妹・市

それにしても、北政所「ねね(寧々)」は
全ての家政を納めていた、とすれば
すごい人ですね

側室に子供がたくさん生まれていたら
辛かったでしょう

「寧々(ねね)」は糟糠の妻という存在で
秀吉の家来の武将達も「寧々」を慕い

信長には、「秀吉には勿体ない」と言わ
しめたほどです

最高の伴侶は、やはり「寧々」をおいて
他にいませんね、「寧々」いい名前です
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