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政治家の伊藤博文
西暦1872年12月31日が明治元年、それ
よりも、9年前のこと

長州藩の伊藤博文が、藩からの命令で
井上馨らと共に、イギリスに留学

伊藤に与えられた使命はイギリスの人情
風俗や文明の程度を調査することでした

現地の色町に入り浸り、留学生の間でも
問題になって、彼を帰国させるべきと
いう声も上がったとか

日本に帰ってからも、伊藤は親が決めた
妻・すみ(伊藤の友人の武士・入江九一
の妹)がいたのに・・・

それでも芸者・お梅のもとへ、頻繁に
通い、お梅が伊藤の子を身ごもったので
すみと別れ、お梅と結婚する

友人の妹、それも武家の娘を捨て芸者を
妻にしてしまったわけです

1868年には伊藤博文は兵庫県令(知事)に
就任しました

その時、関係を持ったのが、お仲でお梅
夫人の気づくところとなる

お梅は井上馨に頼みこみ、お仲を巡査と
結婚させて、伊藤との関係を切らせたと
言われている

明治に入り1887年、伊藤が首相だった
頃、欧米風の社交施設の鹿鳴館で外国
要人の接待や舞踏会が開かれた

皇族や上流婦人が活躍していた時代です
「鹿鳴館の華」と、呼ばれていたのが岩倉
具視の三女

伯爵の夫人の極子(きわこ)にも、伊藤は
関係を迫っていたそうです

1894年、日清戦争では広島城に大本営
(日本軍の本拠地)が置かれ首相の伊藤も
戦争指導のために広島に入った

その広島でも芸者遊びです、1895年に
下関で講和会議が開かれていた

清国側の代表・李鴻章が狙撃されると
いう事件が下関で起きました、その
報告を受ける時も芸者と一緒だった

1896年、首相を辞任していた伊藤は
翌年、瀧兵左衛門の名古屋の別荘で
過ごしていた

その時、芸者・桃吉と出会い、彼女に
ほれこんだ、ここまでくると誰でも
良かったの?と、聞きたいですね

今、千円札の写真は、野口英世ですが
聖徳太子もあったし夏目漱石もあった
伊藤博文もありましたよ

伊藤博文の写真は、よく覚えています
発行開始が1963年(昭和38年)停止は
1986年(昭和61年)でした

お札に乗っている人がまさか、そんな
人とは、使っている時は思いませんよ

立派な人に映ってましたからね、結婚
していながらも、多くの芸者や婦人と
関係を持った伊藤博文には驚くばかり

彼は、女好きで知られていて「ほうき」
というあだ名がつけられたそうですよ

「掃いて捨てるほど、女がいる」という
意味なのだそうです

幕末〜明治に命をかけ国のために尽力
した人だから魅力的だった?

次には、政治家や財界人の大物が夢中に
なった祇園の芸妓・江良加代のことを
書きましょう
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