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大田垣 蓮月尼
大田垣 蓮月(おおたがきれんげつ)
1791年(寛政3年)-1875(明治8年)

江戸時代後期の幕末の尼僧で歌人
陶芸家、蓮月尼(れんげつに)

知りませんでした、こういう人が
あの幕末に、生きていたとは・・・

伊賀上野城代家老職の庶子(しょし)
庶子は本妻以外の女性から生まれた
子供

父は伊賀上野城主とも城代家老藤堂
新七郎、とも言われ、京都の芸妓に
生ませたという話、京都に生まれて

生後すぐに、京都知恩院の寺士の
大田垣伴左衛門に預けられ、養女と
なる

7歳から丹波亀山城に、御殿奉公し
薙刀、和歌、書などの教養を身に
つけたようです

17歳で大田垣家の養子・望古(もち
ひさ)と結婚

一男二女をもうけたが、いずれも
夭折、のちに夫も亡くなる

夭折とは若くしてなくなること
29歳で大田垣家に入家した古肥
(ひさとし)と再婚

一女を得たがまたしても7歳で失い
4年後には夫も病没

葬儀の後、養父と共に、知恩院で
剃髪し蓮月と名乗る

さらに天保3年(1832)、42歳の時に
養父を亡くす

「つねならぬ世はうきものとみつぐりの 
ひとり残りてものをこそおもへ」

栗のイガの中に実が仲良く3つ入って
いるように、ひっそりと仲良く暮らして
いたのに・・・

彼女には少ない心情を吐露した歌
蓮月は40代半ばまで、失意のうちに
過ごした、大変だったことでしょう

その後は岡崎・粟田・大原・北白川
などを転々とし、急須・茶碗などを
焼いて、生計を立てたそうです

自作の和歌を陶器に釘で書きつけ
「蓮月焼」と呼ばれて人気を博する
ようになる

現在は外国人ファンがいて作品を
集めている人がいるらしいですよ

とても綺麗な人だったので、男性が
寄ってくる

それで歯を抜き、年をとった女にして
いたそうです

周囲からもてはやされることを彼女
好まなかったそうです、麻酔もない
時代に、すごいですね

富岡鉄斎は蓮月尼の老年、お小姓
として一緒に暮らしたとか

蓮月尼は維新の志士とも交流があり
彼女の晩年、浦賀に異国船が来た
こと

攘夷か開国か、勤王か佐幕か争い
へと発展しそうな世の中を、憂えて
蓮月は歌を詠んでいる

「あだみかた(仇味方)勝つも負くるも
哀なり おなじ御国の人とおもへば」

人生はただでさえしんどいのに、多く
の人を巻き込み戦いをする者たちが
歯がゆかったのでしょう

江戸無血開城、戦いがなく、新政府に
明け渡したのは、本当に良かったです

明治8年に亡くなった蓮月尼もホッと
したことでしょう

今日では富岡鉄斎、これほど世界的に
評価されてい近代日本画家はいない

鉄斎は国内は勿論、イギリス、フランス
イタリアなどの西欧諸国から、アメリカ

ブラジルなどで遺作展が開かれるほど
高い人気を得ている

鉄斎の作品に魅了された著名人は多く
武者小路実篤、梅原龍三郎、棟方志功
小林秀雄、谷川徹三など

しかし、鉄斎は自らの事を画家と呼ぶ
ことを非常に嫌っていたそうです

若い頃に蓮月尼と暮らし、人格形成に
大きな影響を受けたのでしょうね

蓮月は西賀茂村神光院の茶室を住居
としていて、そこで明治8年12月10日に
85歳で没した

別れを惜しんだ西賀茂村の住人たち
総出で弔いをしたという

最後に蓮月の歌を一句
うらやまし 心のままに咲きて とく
すがすがしくも 散る桜かな

羨ましい、心のままに咲いて、早速
ためらいもなく 爽やかに散る桜であるよ

蓮月の代表作、広く知れ渡ったそうです
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