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①天誅組リーダー・中山忠光(ただみつ)
天誅(てんちゅう)組リーダー・中山忠光
(ただみつ)は江戸時代末期(幕末期)の
お公家さま

権大納言中山忠能の七男で母は平戸
藩主・松浦清の娘・愛子

孝明天皇の寵愛を受け、明治天皇を
産んだ中山慶子(よしこ)の同母弟です

長兄は中山愛親(なるちか)で、本人を
1世とすれば6世(5代後)は明治天皇

忠光は、天誅組リーダーになった時は
19歳、自ら公家装束の上に甲冑を着て
先頭を行く、血気盛んなお方

19歳ですから当然でしょうね
幕末(1850年代から1860年代)の日本で
公武合体(こうぶがったい)に関わった

朝廷(公)の伝統的権威と幕府及び諸藩
(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化を
はかろうとした政治運動

孝明天皇の大和行幸(やまとぎょうこう)の
一報を聞いた忠光は同志の吉村寅太郎
らと、先駆けとなり挙兵

大和行幸は、攘夷(じょうい)祈願のための
神武(じんむ)陵参拝などを企図したもので
尊攘(そんじょう)派による討幕計画の一つ

行幸の詔(みことのり)とは、天皇の仰せを
書いた文書、孝明天皇(明治天皇の父)より
発せられた

公武合体派は、これを阻止しようと「大和
行幸」発表4日後の、8月17日に大和国
五条代官所を襲撃し代官以下5名を殺害

公武合体(こうぶがったい)とは・・・
日本に置いて朝廷(公)の伝統的権威と
幕府及び諸藩(武)を結びつけ幕藩体制の
再編強化をはかろうとした政治運動です

勢いのまま、桜井寺に本陣を置き、代官
支配の土地を、天皇直轄の領地とする
ことを発表

まさにまさに討幕の最前線となったわけ
ですが翌日「8月18日の政変」が起こる

8月18日の政変とは・・・・・
江戸時代末期の文久3年8月18日(1863年
9月30日)旧暦は季節が今とは違いますね

会津藩・薩摩藩を中心の公武合体派が
長州藩を主とする尊皇攘夷派と・・・

忠光のような急進派公卿(くぎょう)を京都
から、追放したクーデター事件

京都の尊攘過激派が、一掃されると朝廷
からも見放された忠光は、大坂へ脱出し
長州に逃れたのです

長州藩は忠光の身柄を支藩の長府藩に
預け保護した

支藩とは、参勤交代で本家当主不在時
などに本家の代理や、本家の当主が
幼少である場合の後見役とか

でも元治元年(1864年)の禁門の変が
起きる

禁門の変は1864年8月20日に長州藩が
形勢を立て直すため、京都に進軍

幕府軍(会津藩兵・薩摩藩兵など)と
御所の禁門(蛤御門)周辺で武力衝突を
起こした事件

当初は長州軍が優勢でしたが、尊王
攘夷派は総崩れになった

9月に忠光に、「逆賊の詔(みことのり)」
(天皇の敵である事を天皇自ら発表)が
正式に発せられた

長州が「逆賊の詔」が出ている忠光を
保護している事も問題となって・・・

元治元年(1864年)11月15日、忠光は
長府藩の豊浦郡田耕村で、5人の刺客
により暗殺された、20歳でした

長府城下へ遺体を運ぼうとするが綾羅木
(あやらぎ=下関市川中)の海岸で夜が
明けてしまい、砂浜に遺体を埋めた

その場所に中山神社が建立され境内に
彼のお墓があるという

幕末(1850年代〜60年代)は激動の時代
長府藩公式発表は「酒に溺れた末の病死」
とした

しかし、その後、関係者の証言で「暗殺」と
なるのです、20歳で亡くなるとは残念です

歴史の中にはドラマになる題材はいくら
でもあり、特に明治維新までの幕末には
沢山の人生模様があって考えさせられる

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中山忠光の主人公で、ドラマができると
いいのでは?イケメンですよ、期待して
います、忠光の話は明日へも、つづく
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