もろもろももとせ
とつぜんはじめた日記のブログ
プロフィール

江戸絞(えどしぼり)

Author:江戸絞(えどしぼり)
それぞれいろいろ
もろもろももとせ(百年)

精一杯、生きて百年
それぞれがいろいろ
今、出来ることを!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索

RSSフィード

昔、中国大陸、朝鮮半島、日本は交流が頻繁
ある国の国籍を得て、その国の国民として
暮らしている人間のことを一般には移民と
言いますが・・・

日本史の用語では、古代において大陸から
日本に移住し、定住するようになった人々
の、ことを帰化人(きかじん)と、言いました

批判があり、数十年前から日本に渡って
来た人々「渡来人」と、いう呼び名に変った
らしい

揚子江流域から伝わった稲作に、漢字や
仏教や寺院建築技術などを日本に持ち込み

古代日本における文化・政権形成に大きな
役割を果たした人々です

古くは縄文時代の終わり約2500年前頃より
アジア大陸から、春秋時代やその後の戦国

時代にかけて、混乱と戦災を避けて日本に
渡ってきた人々もいた、と考えられている

揚子江流域などから伝わった水稲(陸稲は
約6000年前から存在)

漢字、仏教や寺院建築技術なども日本に
持ち込んだ

古代日本における文化・政権形成に大きな
役割を演じたと考えられています

徐福(じょふく)は中国の秦朝(紀元前3世紀頃)
の「方士」(呪術師や祈祷師、薬剤師で占星術・
天文学にも秀でた学者のこと

彼は始皇帝の命を受け、3000人の若い男女と
多くの技術者を従え五穀の種を持ち、東方に
船出した、との記述がある

1回目は失敗に終わり、再び船出をし東方の
国、日本へ

徐福ゆかりの地として佐賀県佐賀市、三重県
熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県、山梨県
富士吉田市

東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名
徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須

2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見
されている

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に
徐福に関する伝承が残されているようです

波田須駅1.5kmのところに徐福ノ宮があり、
徐福が持参したと伝わる、すり鉢をご神体と
している

徐福が、信濃の蓼科山に住んでいた時に
双子が誕生、双子が遊んだ場所に「双子池」
「双子山」が、あると言う

中国には「平原広沢を得て留まり王となる」
との伝承もあり、徐福は二度と中国には
戻りませんでした

秦の始皇帝により、徐福の国「斉」も滅ぼ
されてしまう、前後は分かりませんが・・

子孫は中国に戻ったとも言われているし
大昔のこと、何が本当か、嘘か・・・

真の目的は日本への集団移住だったの
ではなかったかと、推測もされている

それ以外にも4世紀末-6世紀には、ヤマト
王権に仕える技術者や亡命者として中国
大陸や朝鮮半島から、大勢の人々が渡来

ヤマト王権に仕えた渡来人としては秦氏、
東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ)が
代表的です

大和朝廷(やまとちょうてい)の呼称の他
古墳時代の前半には、近年「ヤマト王権」

「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」、様々な
呼び名がある

紀元前4-3世紀になると、それ以前の九州
北部との交易から更に進んで、日本からも
朝鮮半島南部への移住・入植した

飛鳥時代には百済の滅亡により、貴族達が
日本を頼って、渡来したそうですしね

最後の百済王・義慈王の王子・禅広は持統
天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を
賜り、百済系氏族の代表的な存在となった

子の一人、善光の子孫は日本の貴族として
続いた、と言う、どの家系だろうか?

2世紀-7世紀頃、日本から主に朝鮮半島に
移住した倭人(倭族・大和民族)も、日本に
亡命・帰還した場合は、渡来人と呼ばれた

昔から朝鮮半島、中国大陸、日本、行き来
していたことが、よく分かりますね

現代の日本人はアジアだけでなくアメリカ
ヨーロッパ、オーストラリア、様々の国の

人々と結婚、その子供達が日本人として
オリンピックでも、活躍していました

これでいいのです、睨み合いをしている
場合じゃない、世界はみんな繋がってる
親戚みたいなものですね
この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://yoshiko152.blog44.fc2.com/tb.php/2310-3a0afaf0
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)